娘がPICUに入院してからの日々は、これまで経験したどんな時間よりも濃く、苦しく、そして愛おしいものでした。
何度も鳴るアラームの音、眠れない夜、祈るように見つめる小さな体。
それでも私は、娘のそばにいられることが何よりの救いでした。

今回は、PICUでの付き添い入院から退院の日までのことを、少し振り返って書き残しておきたいと思います。


PICUで過ごす日々

娘と一緒に過ごすようになってからは、ひと時も離れずそばにいられることで、家から面会に向かう日々よりは私も眠れるようになりました。
しかし、娘は昼夜問わず、酸素化が安定せず、高熱や頻脈が繰り返され、何度もアラームが鳴る毎日。
先生や看護師さんが駆けつけるたびに吸引し、上体を起こし、気道を確保する──そんな瞬間が何度も訪れました。

ある時は脈が40近くまで下がり、娘の顔が青ざめて、意識が遠のいていくのが見えて、今回は本当に戻ってこないかもしれないと感じました。
アンビューバッグで人工呼吸を行う場面もあり、まさに“見ていられない”とはこのことでした。
心臓マッサージの場面を目にしたとき、初めて「覚悟」という言葉が頭をよぎりました。


治療と覚悟のはざまで

この頃には抜管はできていたものの、再び挿管が必要になった場合は心臓の機能が落ちすぎており、現実的ではないと説明を受けました。
呼吸器のマスクは普段の鼻マスクではなく、顔全体を覆うフルフェイスマスク。
娘は慣れない装着に嫌がる様子を見せましたが、そのマスクでないと十分な圧がかからないとのことでした。

心不全が悪化し、娘の体は今までに見たことのないほど浮腫んでいました。
まるで別人のような姿に胸が締めつけられ、「こんなに苦しいのに、まだ頑張らなければいけないの?」と心の中で何度も問いかけました。

娘は点滴や薬で眠らされ、心臓を休める治療を受けていましたが、それでも苦しくて眠れない時もありました。
私自身も簡易ベッドで寝泊まりし、睡眠不足でも娘のことが気になって仕方ありませんでした。
毎日、「今日をどうにか乗り越えて」と祈るように過ごしていました。


家族の時間と小さな幸せ

夫もこの頃は仕事を休み、できるだけ娘に会いに来てくれました。
家族3人で過ごす穏やかな時間、娘の好きな「トントン」をして寝かせてあげる時間は、短くても本当に大切でした。

ずっとできていなかった抱っこを先生の許可のもとで挑戦しましたが、それだけで酸素が下がってしまい、一瞬で終了。
おろした瞬間、人工呼吸──。
「もう抱っこもできないのか」と感じた時、自分にできることがどれほど限られているかを痛感しました。

それでも、看護師さんの計らいで毎日のケアを少しだけお手伝いさせてもらいました。
主に浣腸と体拭き。
おうちでやっていたことをPICUでもしてあげられることが嬉しくて、涙が出ました。
はたから見たら不思議な光景かもしれませんが、その瞬間は本当に幸せでした。


最後の選択と退院の日

ある日、先生から「今後は病院で過ごすか、おうちで過ごすか」という選択を迫られました。
夫は「何かあったときのことを考えると、病院のほうが安心」と話し、
私は「おうちが大好きな娘だから、帰らせてあげたい」と願いました。

看護師さんに相談すると、「どちらを選んでも間違いじゃない。でもどちらにも後悔は残る」と言われました。
その言葉が今でも胸に残っています。

迷う時間はなく、短い期間で何度も話し合い、最終的に自宅に帰るという決断をしました。
訪問診療の先生に電話で相談すると、「おうちでできる限り治療してあげましょう」と快く受け入れてくださいました。

PICUの先生からは、
「退院までの道中に急変するリスクが高い。その場合、戻りますか? それともおうちへ?」とまで確認がありました。
その言葉を聞いて初めて、「今日が最後の日になるかもしれない」と現実を突きつけられました。

2月5日、退院の当日、先生たちは薬の量を最小限に調整し、少しでも穏やかに過ごせるよう準備してくださいました。
ドクターカーに乗せられた娘はベビーコットに入り、酸素は常に85%。
1時間ほどの道のりが、永遠にも感じられました。

「どうか無事に一緒におうちに帰りたい」
その願いしかありませんでした。
無事に帰ること──それが、私たち家族の最後の目標でした。

次の記事では、PICU退院後の在宅での生活、そして娘が見せてくれた驚くべき回復までの記録を綴ります。